蒼穹のShangri-La

 満開の桜が咲き誇っている。道はとても険しいのだけれど、それでも私は一歩、ただ一歩と歩を進めていった。
 ようやく、憧れていた地に辿りつく事が出来たのだ。感動も一入であるのだけれど、それにしてもこれは…。
(と…遠かった……)
 最寄り駅から徒歩十五分。それだけ聞けば大したことのない距離に思われるかもしれない。
 しかし、実態は想像を遥かに凌ぐというのは世の常で、その道も例外ではなかった。
 急勾配、15度の坂。果たして人力でそれを登ろうというのか。
 いや、実際に登ってこれたわけだけれど、軽く登山の気分は味わえた。
 というか、登山だった。
 登ってきた道を改めて見返してみると、自分と同じ制服に身を包んだこれから寝食、勉学を共にしようという女の子達が肩で息をしながら登ってきている。中には疲れ果てたのか、座り込んでしまっている人もいた。
 そんな試練のような山道を私たちが登っているのには理由がある。
 葉桜女学園。それが私たちの目指す場所。
 周囲にはコンビニから郵便局にいたるまで、生活を感じさせる様な建物は一切なく、携帯電話の電波すら届かないような、お世辞にも便利とはいえない場所に造られた学園だ。
 だからといってこんな山の中腹に造る必要性が全く感じられない。
 いくら途中まで電車が走っているとは言え、一時間に一本しか走らずしかも単線。
 車で進入しようとしても、途中は獣道を幾度も越えねばならないらしいし、そうなると交通は自ずと両親から与えられた両足に定まってくるのである。
(………!)
 一瞬、信じられないような光景を目にしたように思った。
 慌てて目を擦ってもう一度そちらの方へ視線をやると、その影は消え去っていた。
(……気のせいか…)
 何ていうかこう…。
 そう、並みの体力ではとても登るのに苦労すると思われる坂を脱兎のごとく登り詰める人物がいるというのは到底思えない。
 気のせいだと思って学園のほうに振り向いたとき。
「瑞希ー!」
 後ろのほうからかけられる声。それには自分がとことん疲れているのだと判断させられた。だってそうだ。こんなところで男の声を聞くはずなどない。
「ちょ…お兄ちゃん! この坂を登り詰めるとは…!」
「お前、忘れているだろ。入校許可証。これがないと学園内は入れないぞ」
「あ! ごめんごめん。それじゃ」
 と言って逃げ出そうとする少女の首根っこを掴んで、その場に留めようとする、男。
「待て…。お前、私に何か言うことがあるだろう?」
「だって! あまりに気持ちよさそうに眠っているから!」
「起こせと言っただろう! 全く…危うく麓まで強制退去させられるところだった…」
 ため息をつきながら、男はそこにいることがまるで当然かのように振舞う。って、ちょっと待て。
「あの…ご父兄の方ですか?」
 ああ、もう何を話しかけているんだろう、私。きっと面倒なことになると分かっているのに、その面倒なことが起こることを認識していないこの男がやけに気になって、声をかけてしまった。
「ええ、まぁ……」
「どういうつもりです? 今日は私達の入学式。ご父兄の参加は女性のみということになっているのですが?」
 全く…入学式くらい父親の入校を認めてもいい気がするのだが、それさえ認めないらしい。合格通知とともに送られてきた資料にしっかりと、太字下線付きで書かれていた。
 お父さん、それを見て少しいじけていたっけ…って、そうではなくて!
「うーん…いや、でも一応今日ここに来るようには言われているし」
 と、男はとぼけた感じで言う。しかし、どう言われても入学式に参加することは不可能だ。聞くところによると、来賓さえ女性限定とか。
 そんな変なところまで格式ばったお嬢様学校に、男は一歩たりとて踏み込めないはずだ。恐らく守衛に捕まって長い説教になるのがオチだろう。
「ま、多分守衛さんも話せば分かってくれるだろう」
 そう言って守衛に話を付けに行く男。ああ、哀れな。自ら火の中に飛び込んでいく夏の虫ほどの哀れさを感じさせてくれる。
「貴女からも言ってあげたら? あの人、ちゃんと入学案内は読まれたの?」
「うーん…。それは怪しいけど、多分入れると思うよ」
 何を馬鹿な。
 確か、瑞希とか呼ばれていたような気がする。
 目の前にいる少女にあれだけの難関入試を突破してきたとは思えないほどの聡明さは見られなかった。なんせ、兄同伴で入学式に来るのだから…。
「通っていいそうだよ」
 …はい? 今、なんと?
「行こう、瑞希」
「う…うん」
 って、瑞希さんは私を置いていってもいいものかと心配げな表情で見ているし。でも、何で…?
「通っていいって…どうしてです?」
「あれ、話さなかったかな……」
 男はクルリと私のほうを見て、少し微笑んで言ってくれた。
「私は今年からこの学園で化学を教える御堂司です。よろしく」
 教えるとは…教師ということか。え…教師!?
「し…失礼しました! 先生に向かって先ほどのような無礼な態度を…!」
 まずった、失敗した。入学式の前から先生の前で失態をするとは、つまり自分をアピールすることになる。勿論、悪い意味でだ。
「いいよ、しっかりと説明しなかった私も悪いんだ。君も、新入生だよね?」
「は、はい! そうです!」
「じゃ、私と一緒だね!」
 と、元気に言ってきたのは瑞希と呼ばれていた少女だ。
「初めまして、高瀬瑞希といいます。よろしくね」
 そう言って、無邪気な笑顔とともに右手が差し出される。そのとき私は違和感を感じていた。先ほど確かに目の前にいる少女、瑞希は目の前の男…もとい、先生を兄と呼んでいたはずだ。苗字が違うのは何故…?
「あの…兄妹ではないんですか…?」
 質問の意図がよく分からなかったのか、瑞希さんは手を差し出したまま固まる。
 いや、固まったのは触れてはいけないところだったからとか? 確かに兄妹だからって同じ苗字である必要はないわけだ。そういうのは個々の家庭に事情というものがあって、腹違いとか両親の離婚とか…。
「腹違いとか両親の離婚とか考えていたら違うよ」
 先生、エスパーですか。真顔で考えていることを見抜かないでください。
「瑞希は従妹でね。幼い頃から私とともにいたから兄と呼んでしまう癖が抜けないようで…」
 いい加減直せよ、と小突く先生。…なるほど、従妹なら納得である。
 と、ここに来て私は初めて瑞希さんから手が差し出されていることに気が付いた。
「こ…こちらこそ、よろしく。高階可奈です」
 幸先が良いのか悪いのか。今ひとつ分からないまま、手を握り返す。
 それを見届けてか、先生は「遅れるよ」と一言残して立ち去っていった。
 時刻は8時半を少し過ぎた頃。確か40分までには教室にいないといけなかったのでは…。
 サーっと血の気が引いていくのが分かる。後ろを見ると坂でへばっているような者は一人もいない。どうやら、私たちが話しこんでいる間に追い抜いていったようだ。
「お兄ちゃん! どうしてそう肝心なことをいつも言わないのよ!」
 瑞希さんも慌てているらしい。
「お兄ちゃんはやめろ、先生だ。高階さんも、遅れないようにね」
 となると必然的に次に移す行動は決まっているわけで…。
「急ごう! 可奈ちゃん!」
 人懐っこい性格なのか、それとも他に要因があるのかは分からないけど、瑞希さんは物凄く慣れ親しんだ、十年来の友人のように話しかけてくる。
 その性格は学園生活を送る上で多分、弊害しか呼ばないだろうけど、私は段々と瑞希さんに惹かれていることを感じていた。
 断っておくがレズとしてではない。友達として、である。

「どうにか間に合ったね」
「え、ええ………そうね……」
 一体どういう鍛え方をしているというのか。瑞希さんは私が考えていた以上に体力を持っていた。
 考えてみればそれも当たり前だ。あの急勾配の坂を先生と一緒に猛ダッシュで駆け抜けてきたのだから。
 だが、そこで消耗したはずの体力は全く衰えを見せず、校門から教室まで私は全力疾走を強いられた。
 おかげで集合時間前に教室にたどり着くことは出来たけれど、何故入学式当日からこんなに苦しい思いを…。
「でも、良かった。一緒のクラスで」
 屈託の無い笑み。瑞希さんは私にそんな邪気を一切感じさせない笑みを見せてくれた。
 正直な話、私も安心している。少なからず私とて新しい環境に対する不安はあったのだ。
 しかも、この学園は幼稚園からエスカレーターで上がる方式を採っているので、高校からという中途半端な時期に入り込む私に、友人など出来るのか。その不安が解消された。
「あ…始業ベル……」
 楽しいおしゃべりはここまで。私と瑞希さんは席に着いた。が、そこで気づく。瑞希さんの席は私の一つ前だったのだ。
 高瀬と高階だから当然といえば当然だろう。
 同じクラスなら出席番号は必然的に近くなる。
(…なんだか素敵な偶然…)
 と思っていた矢先。
「すみません! 遅れました!」
 そう言ってドアを思い切りよく開け放った先生は…。
「え…?」
 思わず呟いてしまった。始業ベルが鳴り終わってから数秒後に教室に滑り込むようにして入ってきた担任と思しき人物。それは、今朝方顔を合わせた、御堂先生だったのだから。
「今のセーフですかね? …というより、そうしておいて下さい。上の先生に知られてはいきなりお説教されるので」
 そのセリフにクスクスと、上品に笑う周りの生徒達。多分、こんな空気に慣れているところを見ると中学にはこの学園にいた人たちだろう。
 そんななか、一人目を伏せて顔を合わせまいとしている瑞希さん。
(分かる気がする……)
 何となくだけど。そう内心で付け加える。
 先生は先生で苦笑いしたまま愛想を崩さないし、もしかしたらあれは生徒の心を掴もうとしたのだろうか?
 それはそれで成功に終わったのではなかろうか。
 決して失敗ではなかったと思う。
「皆様、初めまして。私はこの春からこの学園に赴任しました御堂司といいます。よろしくお願いいたします」
 途端ざわめきだす学友達。
 多分…いや、間違いなく男というところに彼女らは惹かれているのだ。
 珍しいことにこの学園は入学前には全ての教員の顔写真、過去どんな授業が繰り広げられてのかという先輩方のレビューが手元に届く。
 そのため、私はこの学園に男の先生というものが校長、教頭しかいないことを知っていた。
 それもかなり年のいった、老人というタイプの二人しかこの高校には男がいないのだ。
 そんなところに突然若くて、優しそうな表情を浮かべた先生がやってきたらざわめきの一つも起きて不思議ではない。
「はいはい、皆様も静かにしてくださいね。これから入学式までの説明を行いますから」
 はーい、とやはりお行儀良く返答する学友達。
 少なくとも、これから彼女達と一年間は上手くやっていかなくてはならないのか…。
 そう思うと、途端気分が重くなってくる。
 何故、彼女らは初対面の人物にそこまで気を許せるのだろうか。到底自分には考えられない。
 別に先ほどの一件があるわけではないが、私はどうも男という生き物が苦手なようだ。
 いや、悩みというのもおかしいか。べつに恋人とかを欲しいわけでもないのだ。私の過去を全て受け止められる人にしか、私は運命を預けられない。
 だからこそ高校からは女子校を選択したのだ。
 とにかく、それで落ち着けるのならと、両親も快諾してくれた。
 なのに、その先で男に出会ってしまっては本末転倒ではないか。
 私は苦しい思いにとらわれながら新しい生活を迎えた。

 入学式は何事もなく無事に終了した。体育館内は暖房を完備していて、4月の初頭に残された寒さはかき消されていた。
 これは生徒のためかと思いきや、本当はこういった祝典のときに来賓や自分たちが寒い思いをしないため、というところに重きがあったりする。
 …まあ、それでも寒くなかったのだからいいかと思う。
 私は寒いのが大の苦手だった。それも上に超とかがついてしまうほどの寒がり。
 それでもこの学校は教室から廊下に至るまで、ありとあらゆるところで冷暖房を完備している。それは出来の悪かった公立の中学校とはえらく違ったところの一つだった。
「寮に行かないの?」
 後ろから瑞希さんが話しかけてきた。私は廊下の窓から雲が流れていくのを眺めながら「まだ」と短く答えた。
「そう。じゃあ先に行っているね」
 この学園で通いは許されていない。入学した以上、学園の敷地内に存在している寮で集団生活をしなくてはならない。
 そして寮に入れるのは今日から。昨日までの春期休暇中などでは帰省が許可されており、その間に寮内の徹底清掃が行われるのだそうだ。
 だから。今日は学園内の生徒みんなが大荷物を片手に動き回っている。部活も今日から行われるようで、校庭はあっという間に体操着に着替えた者たちに埋め尽くされる。
 その光景は上から見ている分にはとても滑稽なものだった。
(…さて、私も行こうかな)
 思い立ち、足が向かったのは瑞希さんが向かった寮の方向ではない。それとは正反対の方向、そちらに構えられているのは図書館。
 学校とは別館となっており、その蔵書量はゆうに国立図書館に匹敵するとも言われている。
 古今東西問わずに取り寄せられた本は原書も数多く揃えられているという。
 無論、本当に凄い原書はそのままの姿で保存されているわけではない。当然貸し出しもしていない。係の者に頼んで、初めてコピーされたものが渡されるのだ。
 それは仕方がないことだと思うが、それでも原書を手にとって触れるなど、この先の人生をどう考えてもなさそうである。
 折角ならその機会をフル活用するほかない。仮にこの先大学、大学院とこの学園に残るとしても与えられた時間は九年間。全てを読みきることなど不可能だろうけれど、それでもそのくらいの願望はあった。
 幸いにも寮の門限は午後八時と意外と遅めに設定されている。なら、時間ギリギリまで読んで退室すればいいのだ。
 時刻は午後三時。閉館時間を確認すると午後七時半。四時間半の間しかないのなら、館内を一通り見て構造を確認する以上のことは出来ないかもしれないが、初日はそれでも十分だろう。
 そう思って、私は館内へと足を踏み入れた。
(うわ……)
 まず最初に気が付いたのは、図書館の思っていた以上の広さ。
 入学前の資料によると確かに図書館は地上四階。地下二階という構成になっており、地下以上になると高校生以下の立ち入りが禁じられている。
 そちらに貴重な蔵書があるのだろう。
 だが、それを補ってもあまりある蔵書量。それをカバーするかのような広さと、天井の高さ。
 その体積いっぱいに本の香りが詰め込まれている。飽和した空気は開け放たれた扉から一斉に駆け出し、新たな空気によって塗り替えられていく。
 途端に私はそれが惜しくなって扉を閉めた。そうしてみて初めて気が付く館内の薄暗さ。目が悪くなるのではなかろうかと思われるくらいに十分な光量が確保されていない。
 その空気は、異様だった。
(…想像とは少し違う……)
 どこが違うのだろう。そう考えてみてどこも想像と違うところが無いことに思い当たる。
 だが、それをも拭い去る違和感。その正体はまるで見当がつかないのだけれど、確かにそれはそこに存在した。
 正直、あまりいい気分ではない。それでもそのことを気には留めずに館内に歩を進めていった。
 しんとした空気の中、自分の歩む靴音、衣擦れの音がやけに耳元に届くことが苦しかった。
 館内に人がいないわけではない。少し見た感じでも数人は既に先客がいるようで、その誰もが自分と同じ制服に身を包み思い思いの本に目を通しているようである。
 たまに響く、ページをめくる音。それさえ空気に響くほど、張り詰めた空気は緊張させてくれる。
 背に冷たいものが伝ったのは、多分この重苦しい雰囲気のせいだろう。
 それは、ともすれば呼吸さえ正常にさせてはくれないほどの重さで…。
 私は図書館のほうに行って小さくため息を吐いた。
「どうしたの、貴女」
 びくり、と身体を震わせ背後からかけられた声に振り向く。
「あ、いえ…何でもありません」
 その姿を改めて確認して更に一息つく。
(よかった…霊じゃない……)
 はっきりと言って、この張り詰めた空気の中で声をかけられることは、驚きで心臓に負担をかける。相手が霊とかその類であるかも…と考えてしまうのは道理で…って、なに自己弁護しているのだろうか私は。
「驚かせてしまったようね」
 そう言いながら、目の前にいた女性は横に並んで立った。制服のリボンの色から上級生であることは違いない。
「いえ、そのようなことは……」
「貴女…一年生でしょう? 最初から図書館なんて、外界では異常なところよ」
「…はぁ……」
 何だかおかしなことを言う人だ。確かに図書館は異様な空気に包まれている。けれど、それは歴史ある建造物どれもが抱いている特有の圧力で、外界・内界といった単語で区別するほどのものではないはずだ。
「注意なさい…。それでも、闇は貴女に近づくかもしれないわ」
 怪しい怪しい。絶対に怪しい! 断言できる。この先輩は間違いなく怪しげな電波に脳内を汚染されている。間違いない。
 私の心の動揺を見抜いたかのように、先輩はただ一度クスリと微笑んで、どこかへと立ち去っていってしまった。
 その時見せられた笑顔は綺麗だったのだけれど、どこか…例えるならそう、人形のような笑顔…。それも和を追求していったのだけれど、時代の流れに逆らえず洋物を追加してしまった中途半端な和洋折衷の笑顔…。
 不気味な印象だった。図書館という、それでいてこの屋外とは空気がまるで違う空間に、私は戸惑いを感じながら二階へと上がっていった。
 その道すがら、先ほどの先輩のことを考える。
(あの人…どこへ…?)
 階段の踊り場から少し眺めてみたけれど、それらしい姿は見当たらない。
 …まあ確かに、ここからでは本棚の影とか色々と死角が多い。
 見つけられなくても不思議ではないのかもしれないけれど、それにしても眼鏡の奥から睨まれているとも、眺められているとも判断できない双眸が印象に残っていた。
 そう思いながら残りの階段を上り詰めると二階へと出た。
(あれ…?)
 見知った顔があった。二階は本を読むようなスペースは確保されていないようで、所狭しと本棚が並んでいる。
 故に、必然的に死角も一階以上になるわけだけれど、その死角を縫うようにして見知った顔は移動していった。
 図書館という独特の空気に阻まれて、今の距離から声をかけることはできず、私はその見知った顔、瑞希さんへと歩を進めた。
 彼女も寮に行った後、図書館に来たのだろうか? …いやいや、それにしては少し早いのではなかろうか。
 寮から図書館まではどんなに急いでも徒歩十五分はかかるだろう。まして、校舎から寮へと向かう時間を考えると二十分ほどはかかるはずなのに、この時間でいることなどありえるのだろうか…。
 気になって彼女の後をつけてみると、さらに見知った人物が増えた。
(御堂先生…? こんなところで何を…)
 確かに瑞希さんと先生は従兄妹同士だし、二人で会うことは問題ないはずだが、それにしては親しそうな空気に私は思わず身を潜めてしまう。
(…………!)
 瞬間、目を疑った。
(き…キスしているよ!)
 衝撃! 教師が生徒に手を出す瞬間。女子生徒は見た! 
 …いやいや、ふざけている場合ではないはずだ。小声で会話していたようで、何を話していたのか分からなかったけれど、それでも確かに…二人は目の前でキスをかわしている。
 つまり、二人はそういう関係であったということか。
 それも入学する前から。これが学園側にばれたら、二人ともこの地を去るしかなくなるだろう。それにしても随分と大胆な…。
 そう考えているうちに、気が付けば自分の胸が高鳴っていた。
(どうして…)
 …当たり前か。このような光景、今までに一度も見たことは無いのだ。両親でさえ、キスをする瞬間など私は見たことがない。
 だから、なのだ。こんなに胸が苦しい思いに捉われるのは。
 覗いてしまったことに私は内心恥じながらも、その光景に魅入られていた。
 と、何かに気が付いたのか、二人はさっと唇を離してどこかへと去っていった。
 一瞬、自分に気づかれたのかと冷や汗をかいたが、そうではないようで少し安心した。
 だけれども、これで安心は出来ないはずだ。寮のルームメイトは瑞希さん。
 これから気まずい空気で出会わなければならないということが、私は嫌だった。自分で覗いてしまったことがいけないのだけれど。
 私は二階に何があるか確かめもせずに、さっさと三階に上がっていってしまった。階段を上りきると、この階は小説やエッセイといった割と私たちの年代に近いものが置かれており、ちらほらと人影が見えた。
 あまり貴重な蔵書もないのだろう、この階は下の階より多くの光が取り込まれていた。そのためか、若干本に傷みが見える。
 適当な本を手にとって、一番近かった席に着く。と、そこまで来て気が付いた。
(アガサ・クリスティーか……)
 苦手な推理小説だった。この手のものは読んでいるうちに必ず眠くなってしまい、最後まで読み切ったためしがない。
 本の厚さから考えればこの程度のものなら三時間もあれば読めるのだが、推理小説だけはその十倍以上の時間がかかる。
 とは言え新たに本をとりに行く気分にもなれず、半ば仕方なし、という感じでアガサ・クリスティーを開いた。無論、睡魔は読み始めて五分程度で襲ってきて、私は夢の中へと誘われていった…。

 そこは、二年前の世界だった。嫌な予感こそ晴れなかったものの、現在の自分は夢の世界を傍観していた。
 いつもと変わらぬ、日常。
 その中で違うのは現在という自分、すなわち異物が混入されていることである。
(…ああ、夢を見ているんだ、私……)
 そう思いながら、二年前の自分を眺める。あの頃は、あんな風に無邪気な笑いも出来ていたのかと思うと、少々滑稽にさえ思われる。
(確か…この日は!)
 そう。夢なのだ。自分にいくら言い聞かせても、そのビジョンは止まることなく、容赦なく私の前に突きつけられて…。
 心がずきりと痛む。
 やめて。
 帰り道。部活が遅くなって急いでいた。夕焼けは既に西の空彼方へと沈んでいて。
 やめてやめてやめて。
 急いで家へと向かう私を……。
 やめてやめてやめてやめてやめてやめてやめて。
 そして伸びてくる手に…。

 いやーーーーーーーーーっっっっっ!

 夢の中の私は、叫んだ。痛み、絶望的な暴力の前に、それでも叫んだ。
 それを面白そうに眺めている幾つもの目が、汚らしくて…。そこで私は大切なものを失ってしまったのだ。
「…!」
 やけに呼吸音がうるさい。と、冷静に考えてみて、それが私のものだとようやく気が付いた。
 頬にも冷たいものが伝っている。
「何で…今更…!」
 立ち直ったはずだった。あの悪夢は、ここ半年間ようやく見なくなったのに…。
(それでも…何故……)
 最後までは見ることなく、目が覚めたことが幸いだった。最後までは絶対に見たくない、悪夢。
 それを突きつけられて、気持ちのよいはずがない。
 頭を数回振って意識を覚醒していく。
(大丈夫よ…。急に環境が変わったからそれに身体がついてこれていないだけ…)
 そうだ…。そうに違いないと思い、違和感にようやく気づいた。
(? 人が……)
 確かに元々人は多くいたわけではない。だが、それでも数人はいたはずなのに、室内からはまるで人の気配が感じられなかった。
(一体……)
 そこまで考えて、思考は突然押し寄せてきた地震に遮断される。
「な…?」
 とっさに身を低くして構えるけれど、すぐに揺れは収まった。
 しかし、またすぐに揺れは襲ってくる。今さっきのものは横揺れだったのに対して、今度は縦揺れという、地震にしてはあまりに奇妙な、そんな揺れ。
「一体何が…」
 自分が寝ていた間に何が起こったというのか。時計を見ると三十分ほどしか寝ていないはずだが…。
 ふと、何か大きなものが視界の片隅に捉えられる。窓の外、三階だというのに大きくたたずむ大きなロボット。
(人型!? 何で……)
 全体が見えないが、それでもそれが巨大ロボットであることが分かる。それが窓の外にいる。揺れはそのロボットが足踏みをするたびに起こるようだ。
「一体何が起こっているって言うのよーーー!」
 思わず叫ぶ。
 しかし、そこまで来て一つの結論にたどり着いた。
(…そうか、これは夢なんだ。さっきの悪夢の続きなんだ、きっと)
 そう思うと、途端に心が楽になる。
 人型ロボット最大の弱点は歩行アルゴリズムにある。そもそも歩行とは均衡の取れているバランスを自ら崩し、それを修正する際に得られるエネルギーを力学的エネルギーに変換するのだ。
 実際にあのように巨大にしてしまっては、それらが全く考慮されなくなる。確かに足は短めになっているが、それでもバランスをとることに長けているとは考えられない。
 ならば結論は一つ。あれは夢なのだ。
「なーんだ。それならじきに目も覚めるよね」
 そう結論を下したことが間違いであることに、私はまだ気づけていなかった。
 そのロボットが身をかすかにずらした際に、見えてしまったのだ。
「何……あれ…」
 上空には黄金に輝く巨大な人型の物体。それが目の前のロボットと同じく機械なのか、あるいは生命体なのか判断できなかったが、本能が告げた。
 あれは危険なものだ。
 そう…。あれは危険なものであることは間違いない。どの程度の危険なものなのか判別は出来ないけれど、多分、素人の私が危険と判断するものなのだから相当なものであることには違いないはずだ。
「は……はははは…」
 何をやっているんだろう、私。ここにいては危険なのに…。身体は動いてくれない。頭は逃げるという判断を正常に下しているのに、身体が動かない。一歩たりとも。
 途端、響く爆音。それにより窓ガラスは一斉に音を立てて割れる。
 足元まで散らばったガラスは、オーケストラのごとく様々な音を立てて四散していた。頭に降り注がなかったのは幸いかもしれないが、もはや何も考えられなかった。
『……………か…』
「え…?」
『あなたに世界はありますか』
 突如脳内に響く、声。
 あなたに…私の世界? そんなものがあるのだろううか…。
『あなたに世界はありますか』
 それが私を侵食する言葉だった。心の奥底にまで染み渡る声。世界はあるか。私に世界は…。
「駄目! 答えないで!!」
 口を開きかけたときに別の声が聞こえた。白衣に身を包んだ、女性…先生だろうか。
「答えたら世界が滅びるわ!」
「先生…一体何が起こっているんですか…」
「貴女……警報は聞いていなかったの?」
 警報? そのようなものがあったのだろうか。
 …いや、無かったとは私には断言できない。恐らく、先ほどの眠りに就いていた間にあったのだろう。
 これが夢でないのなら、それでつじつまが合う。けれどそれにしては…。
「とにかく、こちらへ! シェルターはレベル9警報だからもう入れないわ!」
 そう言って、無理やり手を引っ張っていく先生に私はなす術も無く連れて行かれてしまう。
「あの…」
「何かしら」
「どこへ行くんですか…?」
「そうね……。人類最後の砦、とでも言っておきましょうか」
 人類最後の砦…。
 何かの比喩なのだろうけれど、その指すところの意味が全く分からない。
 とにかく、あの場を連れ出してくれたのは非常にありがたかった。正直な話、立ちすくんでしまって私は自力では満足に歩けすらしなかったのだから…。

 私たちは校舎にまで戻ってきた。途中は先生が乗ってきたと思われるバイクに乗せられたのだけれど、ちらりと横目を流すと巨大ロボットが私たちを守るように黄金の物体と対峙していた。
「あの…あの二体は何ですか…?」
 駄目もとで、バイクから降りるなり私は尋ねる。
「詳しくは後で説明するわ。今は取り急ぎ本部へと行かないと!」
 本部って…。何やらこの学園は、私の知らないところで大きな秘密を抱えているらしい。
 どんな組織…それが例え学校であるとしても秘密というものは存在するのだろうけれど、それにしては大きすぎやしないだろうか…。
 考えているうちに、案内されたのはエレベーター。
 確か普段は生徒は出来る限り使用しないように言われているものだ。
 体調不良のときなどは仕方が無いそうだけれど、それでも極力使用を避けるように説明されていた。
「乗って」
 エレベーターの中で手招きをする先生。入っていくと先生はカードをリーダーに読み込ませているように見えた。それにより、動かないはずの地下へとエレベーターは猛スピードで降りていく。
「う……」
 これは…正直気持ち悪い……。重力加速度と果たしてどれだけの差があるのかは分からないけれど、通常のエレベーターの規格では考えられない高速性で、自由落下しているような錯覚に陥る。
 どれだけの時間、そうしていたのかは分からなかったけれどもやがて先生は「着いたわ」と言い、扉の向こうへと歩を進める。
 半分朦朧としかけていた意識は、その先の光景によりかき消される。
「なに…これ……」
 思わず、私は呟いていた。
 正面に大きく映し出される学校の屋外で繰り広げられている先ほどの巨大兵器と黄金の物体の戦闘。
 脇のコンソールでは様々な数値がめまぐるしく変動し、声が次から次へと飛ばされていく。
「エリミネイト係数、低下。プリミネイト対数、反転!」
「このままではエールが危ないか…」
 新たにやってきた私にまるで気を配ることなく、モニターに視線を送っていたのは…校長先生?
 間違いない。入学式で挨拶をしていた校長先生だ。一体、どうしてこんなところに……。
『…長官、グラビトンランチャーの使用許可を!』
「ならん、御堂! あれはまだ不完全だ!」
 御堂!? 御堂先生までこの場にいるというの?
 校長先生の叱責は更に続いていく。
「エルゴフィールドの歪曲率がまだ大きすぎる! あれは兵器としては不完全だ!」
『ですが! この戦局を切り開く剣はあれ以外に存在しません! 長官、使用許可を!』
「長官、私がサポートに向かいます!」
 その声に校長先生は初めて私たちに気がついたのか、ようやく顔をこちらに向けてくれた。
「羽岡! …その子が逃げ遅れたという子かね」
「御堂先生、私も向かいます! クリスのサポートで必ず落としてきます!」
 上のほうを向いて言う、羽岡先生。その視線を追ってみても、高い高いどこまで続いているか判別できない塔のみだった。そこに御堂先生はいるのだろうか。
「……仕方が無い。発射シーケンスはこちらでコントロールする。グラビトンランチャー射出準備!」
『了解! 聞こえるか、瑞希。グラビトンランチャーとクリスを出す。その間、持ちこたえて見せろ』
『それ、無茶苦茶すぎ! けど、了解。こんなところで死ぬわけにはいかないからね』
 …待って。瑞希さんの声まで聞こえる。それもメインモニターの片隅に顔が映し出され、通信しているようだ。
 言葉はゆとりがあるようだけれど、表情はそうではないようだった。一刻も早く、援護が必要な状況と思われる。
「グラビトンランチャー、CPU起動。クロックパルス3万THzで安定、クライン崩壊加速度、標準範囲。システム起動、カタパルト接続オンライン」
 次から次へと読み上げられ、起動手順を確認されていくグラビトンランチャー。
 命名からして重力砲であることに間違いはないが、その内部構造はまるで想像もできなかった。
「システム、8番から17番にて異常発生! エルゴフィールド収束率が許容範囲を下回っています!」
『グラビトンランチャーのシステムをこちらへ! バックグラウンドシステムからダイレクトにアクセス。ファイル修正を行います!』
 鳴り響いたアラートの中、御堂先生の声が響く。
「クリスの発進準備は!」
「いつでも発進問題なしです!」
 オペレーターの声を受け、羽岡先生は頷き走ろうとするけれど、それは新たに発せられた声に止められてしまう。
「…! 待ってください! 状況に変化あり!」
 まるで申し合わせたかのように一斉に場の視線がメインモニターに移動する。
「熱源五。熱紋ライブラリ照合……。ヒット、航空自衛隊の戦闘機巡航ミサイル携帯型です!」
「…馬鹿な……。インスペクターとの戦闘は我々に一任するはずではなかったのか…、小泉!」
 その場の誰もが信じられない、といった表情を浮かべている。
『…瑞希、聞こえるか。状況が変化した。自衛隊がスクランブルをかけた。いいか、心して聞け。最悪の展開だ』
 最悪の展開……。御堂先生の声の抑揚や周囲の空気を肌に受けている私にはそれが察せられたのだけれど、理由が分からない。
 普通は逆だ。援護が来たと喜ぶべきはずのところを、何故……。
『今から一分以内に奴を処理する。そのためにも8番ハッチへ向かえ。グラビトンランチャーを射出する!』
『りょ…了解!』
『気密ハッチ開放、誘導員は至急退避。ミラージュコーティング、スタンバイ』
「了解、ミラージュコーティング開始。オブジェクト、グラビトンランチャー」
 オペレーターと思われる女性がキーボードに手を滑らせる。
 …いや、滑らせるという域ではない。もはや旋律を奏でる程の素早さで、間違うことなくキーを叩き続けている。
『グラビトンランチャー、射出!』
 オペレーターの人がキーボードを叩ききったとき、御堂先生の声が響いた。すぐにメインモニターはグラビトンランチャーと呼ばれていた兵器を映し出し、あっという間に巨大兵器の手元に渡る。
『今だ、瑞希! 撃て!』
 その声に応えるかのように、瞬時に照準を絞りトリガーは引かれる。
 打ち出されたのは黒い奔流。恐らくは光さえも内側に捉えているのだろう、ブラックホールと同じ原理で黒く見えるのだ。
 それは見る見る間に黄金の物体に迫り…命中した。
「よし!」
 途端に沸きあがる歓声。
 けれど…まだだ!
『まだだ! 瑞希!』
 つかの間の勝利の美酒。しかし、それは一瞬のうちに御堂先生の声にかき消される。
「これは…莫大な熱量を感知! インスペクター、生存しています!」
「何だと!」
 メインモニターを見ると、黄金の物体は悠然と、その姿を変えることなくもとの場所にいる。
 身じろぎすら見せない…化け物?
『…羽岡、そこに高階可奈はいるな』
「はい」
『ゲイルの起動を試す。すぐに発進準備をさせろ』
「相変わらず…無茶をされますね」
『急げ、時間がない。高階、君も向かってくれ』
 ちょっと待て。知らぬ間に私はどんどん会話に巻き込まれていない? しかも流れ的に私もパイロットになるとかならないとか…?
「冗談じゃないわ!」
 精一杯否定する。
「無理ですよ、御堂先生! 私なんかに何が出来るって言うんですか?」
「…気は済んだかしら」
 私の精一杯の否定に対して、羽岡先生はあくまで冷たく答える。
「戦闘時の御堂先生の判断は最高権限…。反対は許されない、私たちは彼の駒よ」
「嫌です! 無理です! 絶対出来ません!」
 それでもここは無理を押し通させてもらう。あんな得体の知れないモノと戦闘? 冗談じゃない! 自衛隊も来るのだ。彼らに任せて、私は自分の命を守りたい。
 わざわざ死にに行くようなことはしたくないのだ。
「高階さん!」
『…いい、羽岡。地球の存亡を賭けた戦いに、臆病者は不要だ。クリスだけでも出せ』
 …臆病者? 私が……? 
 …そう、そうね。確かに私は臆病者だと思う。
 命を賭けて戦っている友人を他所に、私は何をしているというのだろうか…。
『クリス、出撃シーケンス、スタンバイ!』
「高階さん、最後にこれだけ…」
 羽岡先生が言う。
「振るえる剣を持つ者は、それを持たざる者の盾となり戦わなくてはならないの。それだけは覚えておいてね」
 振るえる、剣……。
 それが私に…? あるというの……?
 ……いいわ、やってやる! どうせ一度は捨てかけた命なのだ。捨てる覚悟で地球を守ってやるのも面白い。
「行きますよ…私も戦います」
「高階さん…」
「教えてください! 私に剣のあるところを!」

『バックグラウンドシステム、アクティブリンク』
 その声と共に、隣に御堂先生が現れる。
『君の視覚野にアクセスした。これは私のビジョンだ。安心してくれ』
 一体何に安心しろと。むしろ既に相当驚かされている。
『いいか、高階。たった今から君の想いはフェンリルの想い、君の唱はフェンリルの唱になる』
「思い通りに動く…そういうことですか?」
『そうだ。操縦桿は銃撃戦時に使うのみと考えておけ。普段は君の脳波をフェンリルが感知し、またバックグラウンドシステムを通じて、後方から私が操作することも出来る』
 …戦闘時における最高権限とはそういうことか。有する巨大人型兵器をその気になれば全て操ることも出来ると。確かに最高権限にもなるはずだ。
『よし、出撃する。初回は私と羽岡でコントロールをする。君は座っているだけでいい、いくぞ!』
 そう言われると、途端に今までの無骨な風景から一転して、コクピットの外はグラウンドへと切り替わっていた。
「……………!」
 こんなに速いなんて聞いていない! ジェットコースターとかそういうもの、ものすごく苦手なのに、今の一瞬で通常の人間が一生涯に体験すると思われるジェットコースターの二倍近くのスリルを味わうことになった。
 外を見ると最初からいる黒色の機体と白色の機体がインスペクターと呼ばれていた黄金の物体に構えを取っていた。
 多分、黒いほうには瑞希さんが乗っているのだろう。白いほうは羽岡先生だろうか…。
 と、考えていたのもつかの間。
 横殴りのGに襲われる。
「……!」
 見れば、今まで自分がいたところにインスペクターから伸びた触手が叩きつけられている。
 あのままその場にいたら、どうなっていたのだろうか。
 そう考えるだけで背筋に冷たいものが流れる。
 否応もなく、自覚させられる。
(ここは…戦場!)
 目の前に広がる学園は、今朝方までの新しい学び舎ではない。
 少なくとも、今は戦場となっているのだ。
『あなたに世界はありますか』
 ああ、もう!
 敵はさっきからそれしか言わないし!
 世界? そんなものあるに決まっている。
 世界は所詮、自分という存在が干渉しうる範囲。その定義に則って考えれば世界があることなど当たり前だ。
『高階! 集中しろ!』
「え…?」
 すぐ側で御堂先生が怒鳴る。…それはもう、手遅れだったのだけれど。
『可奈ちゃん!』
『高階さん! 逃げて!』
 何が起こっているのかが分からない。ただ、横にいたはずの御堂先生はいなくなり、インスペクターも視界から消えた。
 ただ、コクピットは機体の異常を伝えるアラートに支配され、私は状況が判断できなかった。
「! 何、これ!」
 瞬間、悲劇は起こった。気密閉鎖されているはずの、狭いコクピット内に、徐々にだけど黄金の液体が侵食してきている。
 そのプレッシャーは、まさしくインスペクター。
(取り付かれた…!?)
 これは…最悪の展開まっしぐらという奴ね…。
 頭の中では冷静に考えられる。
 恐らく、今私は死への階段を上り詰めている。
 フェンリルゲイルと呼ばれる私の機体は、取り付かれた影響か今は全く思い通りに動かない。
 しかも取り付かれているのなら、味方の瑞希さんも羽岡先生も迂闊に手が出せないはずだ。
(参ったなぁ…もう…)
 死はすぐそこにまで押し寄せてきている。
 人間、意外とこういう時って落ち着くものね…。
 それとも、諦めているだけ?



 生きることを。


 死へと向かうことを受け入れてしまい、生きようという気力を失っているのか…。


 冗談じゃない。


 インスペクターという未知なる物体に対して、人間の手は及ぶ範囲ではないということか…。


 ふざけるな。


 それでも、私は……。


「それでも、私は生きたい!」
 無茶苦茶なことを口に出している。
 分かっている。アニメや物語じゃない。
 それによって機体が爆発的な性能を発揮したり、敵が怯んだりする訳がないのだ。
 現実は甘くない。
 分かっている。
 だからこそ、精一杯抗うのだ。
 すぐそこに迫る、死へと。
『あなたに世界はありますか』
 …またその問い。
 いい加減うんざりするけれど、それしか多分インスペクターは知らないのだ。その問いを問うことが、彼らの存在理由なのだろう。
 徐々に侵食してきたインスペクターは、ついに私にまで取り付いた。
 それは本当に液体のような…それでいて金属のような感触で、人肌程度の温度は持っていた。
 気持ち良ささえ感じる温もり。私の全身は、あっという間にインスペクターに包まれる。
 不思議と、息苦しさは感じない。
 例えるなら、そう。温かいお風呂に入っているような感覚。
 だけれど、その状況はすぐに変化していく。
(……! 嘘!)
 口腔、耳、鼻…。その他ありとあらゆる体内へと続いていく孔から、インスペクターは私へと浸透していく…。
 途端、フラッシュバックを覚えた。
 あの忌まわしき記憶が…。
「いやーーーーー!」
『……!』
 その瞬間、微かだけれど何かの光景を見た気がした。
 誰かが手をつなぎ、誰かと歩く光景…。
 それが誰なのか分からない。
 けれど、そんなことより確かなことが一つだけあったようだ。
 インスペクターは私の記憶を恐れた…。
『…かなし! 高階、聞こえるか!?』
 途端目の前の黄金の液体は消え去り、数十メートル先の空に滞空している。
 御堂先生との通信も繋がったようだ。
 今は隣に先生がいる。
『可奈ちゃん! 大丈夫!?』
「…ええ、何とか………」
 あの記憶に救われたというの…? この上ない屈辱を味わい、歯噛みする。
『瑞希、自衛隊が到着するまで時間がない!』
『分かっている!』
 目の前を黒い機体が疾走する。
 そして校舎手前で高く高く跳躍した。腰部にマウントされていたナイフを二本取り出し、瑞希さんは遠慮なくインスペクターに突き立てた。
 人間で言うなら、一本を頭部。落下中に心臓部位にも突き立てた。
 人間ならば、確実に致命傷となるところだ。
 しかし、インスペクター相手にそれはまだ動きを止めるに過ぎない。
 インスペクターは甲高い雄叫びをあげて、体からナイフを抜き去ろうとする。
『同調開始<トレース・オン>!』
 瑞希さんが叫ぶ。
『電撃始動<ブリッツ・オン>!』
 叫びにナイフが呼応する仕組みになっているのだろうか。瑞希さんが先ほど突き立てたナイフは一本は抜かれてしまったが、二本目は電流を流した!
 インスペクターは頭部からの電流にただもだえる。
『御堂先生! ポジトロンライフルを!!』
 羽丘先生が叫ぶ。
『わかった!』
 羽丘先生の要望は瞬時に通り、校庭の一部が割れて、ライフルを勢いよく射出した。
 上空でそれを受け止める、羽丘先生。
『目標補足<ターゲット・インサイト>!』
『可奈ちゃん! 伏せて!』
 瑞希さんの叫び声。それに考えるよりも早く、私は機体を地面にたたきつけるように伏せた。
 ふと、羽丘先生の機体を目で追う。
 インスペクターまでの距離は10m程。
 その至近距離から、ライフルを放つ!
 放たれたのは光の奔流。
 グラビトンランチャーが黒い光を放つ兵器なら、こちらは白の光を放つ兵器。
 光を放った反動か、それは大きく空気を震撼させた。
 そう。
 ものすごい衝撃波だった。おそらくフェンリルでさえ吹き飛んでしまうだろう。
 そして、それは確かに、インスペクターを打ち抜き跡形も無く消滅させた。
 まさに必殺。
 それだけの力をもった光は、やがて空を昇っていき、彼方へと見えなくなっていった…。
『…よくやった、三人とも。目標は完全に沈黙。自衛隊も引き返すようだ。帰投してくれ』
「…はい」
 正直、私は何もしていない。そればかりか足手まといにさえなっていたのではなかろうか。
 ……それでも、いいのだろうか。初めての戦闘で死なずに済んだ…。
 命を賭けた…地球の運命すら賭けた戦いで、私は死なずに済んだ…。
「私……生きている……」
 両手のひらを眺めながら、生きていることを改めて感じる。
 インスペクターに侵食されて……それでも私はこの世に留まっている…。
 やはり、禁断の知恵の実を口にした私だからなの?
(いいえ……それは関係ないはずよ……)
 生きていた…。
 ただ、それだけで喜びが込み上げてくる。
 死を受け入れながら生きていると思っていたのに…違ったようだ。
 私は生き残れたのだ…。
 そう…。戦闘時間はこの上なく短かったのだろうけれど。
 また、大地に足をつけて立つことができると思うと、不思議な感覚だった…。
「可奈ちゃん!」
 突然開け放たれる、コクピットハッチ。
「瑞希…さん」
 逆光になっていたけれど、それでも声でそこに誰がいるのか分かった。
「生き残れたよ、私達! インスペクターに勝てたのよ!」
 私の操縦桿を掴む手を掴んで、瑞希さんは涙を流しながら喜ぶ。
「瑞希さん、私……」
「うん、大丈夫! 大丈夫よ!」
 そう言いながら、瑞希さんが私を抱きしめてくる。よく見ると瑞希さんはパイロットスーツみたいなものに着替えている。
 私のように急な発進じゃなかったから、制服から着替えるゆとりがあったのだろう。
 そんなことを考えながら、私は瑞希さんの温もりに身を委ねた。
 不思議と涙があふれた。
 私たちは勝ったのだ……。

「可奈ちゃん、こっちこっち」
「ちょっと待ってよ…」
 私はインスペクターに侵食されたということで、あれから精密検査を一度受けていた。
 そのときはインスペクター反応は陰性。侵食の後やそれによる後遺症は考えられないそうだ。念のために、定期的に検査すると言われ、私はその後解放された。
 明日。御堂先生と羽岡先生から私は今日連れて行かれた場所や、インスペクターについて説明を受けることになっている。
 だから、今晩くらいはと瑞希さんの誘いを受けた。
 寮へどんな言い訳をしようかと思ったけれど、私達はいわゆる特権階級にあたるようで、外出が自由ということになっているらしい。
 それなら、と遠慮なく夜8時過ぎに寮から外に出た。通常ならご法度なのだろうけれど、寮長も顔パスで抜け出させてくれた。
「大丈夫? インスペクターにやられたところが痛むの?」
「そんなことはないわ」
 先ほどから瑞希さんはそのような心配を何度も口に出している。
 正直、ありがたかった。こうして私のことを気遣ってくれる人がまだいたのだ。純粋に、私を心配してくれているのだ。
「もう少しだから、頑張ってね」
 夜空は空気が澄んでいるためか、満天の星空である。
 桜はライトアップされているわけではないため、夜桜を楽しむことはできなかった…。
 少しそのことを残念に思いながら、瑞希さんの後ろをついていく。
「ほら、ここ!」
 案内された先の風景に、私は思わず感嘆の声を漏らす。
「すごい……」
 以前函館の一千万ドルの夜景を見て感動したけれど、それ以上をいくのではないかという夜景…。
 それは例えようもないほどの美しさを彩り、最高の絶景だった。
「葉桜女学園の誇る夜景よ。あまり一般人には知られていないし、内部も寮制度で知っている人が少ないんだけど、すごいでしょう」
 瑞希さんは私に旅行社のガイドのように説明してくれた。
 隠された名所…。文明によって築かれた、最高の風景。
「これを…私達は守ったの……」
「うん……」
「良かった…。守れて……」
 そうだ。あの時、私が諦めていたらこの風景は見られなかった。瑞希さんが覚悟を決めた特攻をしなかったらやはり見られなかった…。
 数々の一瞬の判断で、現在は成立しているのだ。
 そう思うと、妙な感慨に包まれた…。
「あの…瑞希さん……」
「いいよ、瑞希で」
 夜景に視線を落としながら、瑞希さんは答える。
「あまり他人行儀にされるの、好きじゃないんだ。私」
 笑顔で答えてくれた。
「うん…じゃあ、瑞希。私も可奈でいいわ」
「ありがとう、可奈」
 何がありがとうなのかはいまひとつ分からなかったけれど、それも瑞希らしいところといえば瑞希らしいのかもしれない…。
「これからもよろしくね」
「こちらこそ、よろしく」
 握手をした。本日二度目の握手。しかも同じ相手にだ。どこか滑稽なような気がしたけれど、それでもいいか。

 とにかく、戦いには勝利した。

 明日からは平穏な学生生活に戻れるはずだ…。
 このときには…そう、少なくともこのときはまだ、そう思っていた。
 明日、御堂先生の話を聞くまでは……。

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